「洞雲寺」については、「名所/旧跡>洞雲寺」をご覧ください。

草深い、ここ西和泉、田代のその昔、里のほぼ中ほどに、一寸したお堂があり、その近くに劫庵寂永(こうあんじゃくえい)という僧が住んでおられ、百姓などをしながら、堂宇の守をしていたという。お寺というにはまだそれほどの規模がなく、無住職の堂宇であったといわれる。

ところで、その頃、その堂宇のまわりを掃除したり、その僧の身のまわりを何くれとなく面倒をみる一人の姥(うば)があった。畑を耕し野菜を作る、こまめに百姓をする、僧の食事をしつらえたり、仲々に出来ないこうしたことに、その僧は深く感銘していた。ある時のこと、僧はその姥にたずねた。
「どうしてそのように御馳走ができるのか。」
すると姥は、自分の働きを極くひかえ目につつましく答え、そして僧のため、今後も一生懸命に働くことを誓うといい、やがて何くれとなく僧の身のまわりの世話をしていた。その姥はいついずこへともなく姿を消していったのであった。

やがて時は移り足利義勝将軍の時代となり、将軍よりお寺を建てるようにと、土地を寄附してもらったのである。時に嘉吉三年(一四四三) のことであった。
そのころお堂のまわりは美しくなり、池には鯉も泳ぎ、大そう良くなって、お堂への参詣の人々も次第に増えていた。そして、遂に意を決し、康正元年(一四五五)に洞雲寺が新しく建立せられ、立派な堂宇となったのであった。そして、その名も大龍山洞雲寺と改められ、文明一八年( 一四八六) に没せられるまで、寂永和尚が住職でいられたのであった。それから更に、何代かを経て、土岐郡平岩村(現瑞浪市)から、開元院十世当寺開山伝室梵的和尚がこられ、寂永祖の真風を唱えられ、ここに名実共に洞雲寺の開山となったという。

それから程なくして、田代山寺村・和泉村・広野村あたりにかけ、天も裂け、地も割れんばかりに激しい雷鳴がとどろき、恐ろしく荒れ狂う日々が続いたのであった。人々は恐れおののいた。洪水のため田畑は流れ、人々はうろたえるばかりであった。
丁度その頃、和泉村・広野村の百姓の夢枕に出たのは、これは、洞雲寺の竜が行き場がなく安んずるところがないため暴れており、これを鎮めるには供養をせねばならないということだった。この夢のお告げに基いて、人々は竜門渕へとおもむき、念仏を唱え、この荒れ狂う天気が、どうか早く平穏ならんことをひたすらに祈った。するとこれは不思議、あれ程に荒れ狂っていた天が、ぴたりと鎮まり、カラリとした晴天にとたち返ったのである。

それからというものは、あまりに日照りのうち続く時には、洞雲寺の秘蔵の竜の掛軸を出し、これを掛けて一心にお祈りを続けると、さしもの干天がにわかに曇り、必ず慈雨に恵まれるということになった。ここにこうした因縁により、大竜山洞雲寺、雨乞の竜として、後世に伝えられることになったという。このように、洞雲寺には、竜にまつわる伝説があり、その後、洞雲寺は、西尾丹後守の所領、田代山寺村の知行所として、現在でいえば役場のような行政機能をもち、宗門改めやら、その外、村方のいろいろな事務を行なっていた。

時は移ろい変わり、この由緒ある洞雲寺は昭和三十三年に田代より、現在の西和泉・出村(でむら)へと移り、古い伝説を秘めつつ現在に至っているようである。

「ふるさと白川 第6号」より

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書籍ふるさと白川 第6号
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