このはなしは、安政六年(1859年、有名な安政の大獄があった年)に生まれた老婆から聞いた昔話である。その老婆も枯れ木のように老衰で八十八才で世を去った。それからもう四十年も過ぎている。

むかし、佐見地方のある年の夏、来る日も来る日も日照りが続いた。幾日も焼けるような炎天で、道端の野草は萎び、畑の作物は茶褐色に変わり、田んぼも干われができてきた。里人たちは、雨を待った。部落ごとたいたて山では、連日松明(たいまつ)を焚いて雨乞いを続けて祈った。雨は降らない、降らないのみか、いよいよ暑さが増して、洞々の山谷も小川もそして遂には本流佐見川の水も枯れてきた。人々は飲み水にも困ることになった。

その頃は、どこの家も、山の洞谷か清水の湧き出る泉から筧(かへひ)で井戸舟へ飲み水をとって溜めて使う家ばかりであった。家々の人々は手分けして、水源を探し、水を求めて水汲みに出かけなければならない。

とうとう、上佐見の地には水が枯れてしまったそうだ。
その時、ある夜、ひとりの信心深い老婆の枕元に水神様の姿が現れて「はこ渕へ行け」との、お告げがあった。老婆はこのことを里人に話し、みんなで「はこ渕」へ走った。

上佐見地区は、東西およそ5キロの細長い部落で、標高差も二百メートル近い傾斜地であって、山を隔てた西の下佐見部落との境いは、中山(なかやま)で区切られている。中山は人里離れた山のなかで、西方から急な山がせまり、道から数メートル下を佐見川が流れている寂しいところである。

最近でも、古老の話に「中山は、いつ通ってもさびしいところや。若いころ祝言やお祭りによばれて、ごちそうを家苞(いえつと)にして持って帰るんじゃが、あそこを通ると、いつの間にか包みの中の「ごっつおう」が抜かれてな。狐がよう出るんじゃ。後ろをふり返ると、狐がふっと立ち止まる。歩いていて、何か足元近く触るようなと思うことがあるが、そんなとき狐が来とるんじゃな。こんどは取られまい、と用心して通るが家に着いてみるとなくなっている。そんなことが何度もあった。」と。

その山道の下を、佐見川がうねり曲がったところ、そこに断崖でできた深い青渕がある。はこ渕である。その渕の中に、函(はこ)の形でできたなお深いところがあって、昼なお暗いほどの穴になっている。とうていそこは見えない深さだった。現在は、道路改修工事や洪水などで岩石が落ち込んで、かなり浅くはなっているが、それでもなんとなく不気味な渕である。「ふるさと物語」にも載せられた「幸吉・おそめ」の悲恋物語の渕でもあるから、なにか神秘を秘めている。子どものころ、道を通るときこの渕の穴へ石を投げると雨が降り出す。そして、川向うの山に七色の虹が出る、と言われて不思議に思ったことがあった。子ども心にいたずら半分に石を投げて駆け出して逃げるように通った思い出のある人ももう数少なくなった現在である。

さて、むかしの里人たちは、この渕にだけ溜まっている水を近い人は手桶で、遠くの人たちは馬の背に桶をつけて坂道を我が家へと飲み水を運んだということである。

その後、この渕のそこにある函形のところにお地蔵様を祀ったのだそうだ。水神様であったろう。

「ふるさと白川 第2号」より

書籍ふるさと白川 第2号
もくじ
お問い合わせ白川町町民会館
生涯学習係
0574-72-2317
発行白川町中央公民館
(現 白川町町民会館)
編集白川町ふるさと研究会