今はなき佐見の女夫杉は、高天良(たかてら)神社の本殿の南130mの県道沿いにあった。
東側の男杉は、樹齢1,000年、幹の回り9.7m、高さ27mあり、西側の女杉は、樹齢600年、幹の回り6.6m、高さ38mもあった。不思議なことにこの二本の杉は、地上約5mのところで、66m2の直径の太枝が出て、相愛の手を堅く結んで、H字型になっていたので、女夫杉と呼ばれ、木の雄大さと、神門のような形は、御神木として崇められた。
この二本の杉にまつわる話がある。
今を去る500年前の昔、京都に一人の烏帽子折の古藤治(ことうじ)という老人が住んでいた。その娘の美杉は、絶世の美人で左京の嵯峨野に咲いた一輪の白百合のようで、月に花に雪にと、優雅な暮らしをしていた。
その頃、足利幕府は六代将軍の義教(よしのり)で、権力をほしいままにし、わけても彼は色好みであった。
家来も主人にとり入るために、美女を見出しては捧げる者があり、一色氏義もその一人である。彼は先の美杉を将軍の側女(そばめ)としようと奨めると、義教は一目見て大変気に入り、是非にもと強く望んだ。
古藤治は「美杉には許嫁がある。」ときっぱり断ってしまった。
時の将軍の望みを断れば、とうてい親子は京都に居ることはできず、老人は知人をたよって逃れ、美杉は許嫁の北面の武士松尾定行とともに、手に手を取って、伊勢国に落ちのびた。伊勢国も安住の地ではなく、追手が迫ったので、飛騨の高山の縁者を頼って、木曽川に沿って美濃国に入り、飛騨川つたいに飛騨に向かった。
ここにも追手の目がきびしく、道を転じて佐見路に入り、久田島郷へ落ちてきた。
山また山と狭い道は険しく、半年近くの旅の疲れと、飢えと心労に悩まされ、更に厳しい追手の危険も身に迫り、二人はこの世のはかない契りよりも、あの世で永久に結ばれようと、死場所をさがしていた。
佐見川をさかのぼり少し開けた道沿いに、二人の愛しあう姿を表わすように立つ二本の杉が目に止まった。
翌日、二人の死にがらは村人によって、女夫杉の根本で見つけられた。二人の塚は今ではお守り袋の不動尊は、近くの「もとぐまの滝」に祀られ、今でも里人の尊敬をあつめている。
この悲しい二人の愛しあう心が、神木に宿って、男杉、女杉の枝によって堅く結ばれたのである。女夫杉はその樹皮を取って守りとすれば、夫婦和会の験(しるし)があると信じられている。
500年前の奇しき縁の女夫杉は、昭和34年9月の伊勢湾台風で、一夜にして倒れてしまった。往時の雄大さを偲ぶ株が今も残っている。

「ふるさと白川 第3号」より



書籍ふるさと白川 第3号
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