佐見川発電所の近くに、紅葉橋があるが、そのすぐ上流に「タカサの岩」というのがある。これは巨岩が平たい石に支えられて、危うく釣り合いを保っている。このつっかい石をかったのが、飛保(ひぼ)のタカサ(杉山高三郎)という人だと伝えられており、このタカサの力自慢の話しである。

佐見村の入り口である郷坂峠の大曲がりで、油井の人たちが道作りをしていた。山ぎしの崖を掘っていたところ、大きな岩がくずれ落ちて道の真中にドカッと居座ってしまった。なんとか始末をつけなければと皆で力を合わせて押したり、こでてみたりしたが、びくともしない。しばらく時間がたって、昼ごろになり「こりゃだめや、昼飯でも食べて腹ごしらえし、ついでに金棒でももちよって、あらためてやり直そう」と一同は家に帰った。

やがて皆の者が、現場に戻ってみると、あれだけの巨石が近くに見当たらない。一同は驚いて言葉もなく立ちすくんでいると、少し遅れてきた者が、あっ!そうかという顔つきで「さっき、タカサが登ってきよござったで、これや、タカサのしわざやぜ」と云った。

皆の者もうなずきながら、タカサの強力にほどほど感心した。

吉岡屋に飛騨銀行の支店ができることになった。銀行には、金庫がつきものである。

さて、金山町から佐見まで金庫を運ぶことになった。なにせ八十貫位の重さである。はじめ人夫八人が頼まれて運びに行ったが、昔の道は幅が狭く人夫が多くてなんともならない。困り果てて、強力のタカサに頼むことにした。

タカサは、翌日金山町に行って、金庫の底につめてある砂だけ抜いて、手ぬぐいで鉢巻きをし、わらじのひもを締め直して、太い綱を金庫の後ろにまわしてかけると、ヒョイと背負って、馬渡瀬(うまわたせ)を越え、郷坂峠を登って無事に吉岡屋に金庫を届けたという。


渡合の沢田松重サは、秋の臼引きになると、力持ちのタカサを毎年頼んでいた。


昔の臼引きは、百姓仕事でも根気と力のいる重労働で一人や二人では土臼(つちうす)はなかなか回せるものでなかった。

さて、お茶漬けの時の一休みで、主人の松重サは、からかうつもりは無かったがタカサに向かって「いくらお前が力持ちでも、米俵五俵はちょっと運べまいなぁ!にごと背負ったら五俵の米をみんなお前にやるが、どうや」と云った。タカサは、「背負ってみにゃわからんが、ハシゴを一つ貸しとくれ」と言って、軒はしに掛けてあったハシゴを持ってきて、米俵をしっかりくくりつけて、ハシゴの真ん中を肩にかけると、別に赤い顔もせずに立ち上がって、歩いてみせた。

度肝を抜かれた松重サは、驚くやらくやしさでいっぱいだったが、平謝りに謝って、約束の米五俵を褒美としてやることは、取り消しにしてもらった。

タカサが米俵のかわりに何をもらったかは、つい聞き漏らしてしまった。

「ふるさと白川 第2号」より


書籍ふるさと白川 第2号
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