慶応4年(1868)3月「神仏分離令」が配布され、永年続いた「神仏混淆」の歴史は、大きな改革を迫られることになった。

苗木藩では、王政復古・神道国教主義に基づく「祭政一致」の政治理念によって、領内の村々に対し、仏教勢力を排除し、寺院の破壊をはじめ仏像・仏具の破壊、僧侶に還俗を命じた。また家庭における仏壇・位牌の償却、路傍にある石仏・文字塔なども破壊するか、土中に埋めたり、川に流すように命じた。町内には現在も当時の爪痕が残されている。

宗教が自由になったら今なお仏壇と神棚の両方から備えられた家があったり、町内のお寺の数が7つなのに対して、神社が39もあるのは当時の影響であると言える。