黒川の中之平(なかのたいら)と鱒渕(ますぶち)の境にある杣沢谷(そまさわだに)に、高さ三米、巾一・二米の「南無阿弥陀仏」と彫り込まれた、立派な石仏が祀ってある。

今から、二百三十年前にこの石仏が建立されたことにまつわる話である。

昔、昔、杣沢谷付近で、古武士が勢力争いから雌雄を決することになり、組打ちをして、激しく争った。久しく勝敗がつかなかったが、一方が遂に負けて、首をはねられた。

そして、その首はこの地にさらされた。その後この近くは野首と呼ばれるようになった。

それから久しく経って、首を打たれた古武士の怨念だろうか、村人達が、火の玉が出たとか、雨の夜乱れ髪の武士の姿を見たとか、激しく戦う刀の音がしたとか、噂が広まって、村人達は、この付近を通行するのが淋しく怖いところとされ、夜は人通りもたえて、人々は困っていた。

このことを時の正法寺の大年和尚が聞いて、なんとか古武士の魂を弔うため、供養塔を建てて、仏の心を鎮めようと村人と相談して決めた。たまたま近くに立派な石が見つかったが、さてこんな巨石に文字を書く筆が当地にはなかった。そこで大年和尚は、尾張名古屋まで行けば、適当な大筆も見つかるだろうと思い立ち、犬地から久田見を経て、八百津につき、そこから舟に乗って、木曽川を下り名古屋についた。半日程で町のうちに筆屋を探し当てた。この店は、尾張の殿様の御用商人であった。

大年和尚が「ごめん」といって店に入ると、番頭がみすぼらしい旅僧の姿をじろじろと見ていた。和尚は意にもかいしないで、「この店にある一番大きな筆を所望だが」ともうしますと、番頭は、どうせふところ具合のよくない客だし、金払いも悪いと考えて、ていよくことわって追い返そうとした。両人は、店先で二、三問答していたとき、店先があまりにさわがしいので、奥に居た主人が何事かと店先に出てきた。

主人はどんなお客様でもお粗末にしてはならないと、番頭をたしなめて旅僧に挨拶をした。

和尚は、やがて店先にあった硯(すずり)と筆を借りて、反古紙(ほぐし)にさらさらと一筆書いた。これをみた主人は、その達筆にびっくりした。

「私は、商売がらたくさんの書を見ていますが、和尚さんほどの達筆なお方は初めてです。実はここにお殿様からご注文を受けまして作らせた大筆が一本あります。何かの都合でお買い上げになりませんでしたので、これを差し上げましょう」と申して、丁重に和尚を奥の間に通して、茶菓子を出してもてなした。やがて主人が、

「和尚さん、この大筆は、ただで差し上げますが、あなたの達筆には、ほどほど感心しました。和尚さんの書を家宝として残しますので、一筆書いて頂けないでしょうか」

と懇願しました。和尚は、たやすいことと、大筆に墨をたっぷりとしませ、すらすらとこの店が益々繁盛する名文句を書きました。主人は、書の立派なことと縁起の良い文句に大変喜んで、お礼をいい、大筆を包んで和尚に渡しました。和尚も恐れいったが、主人の好意を受けて筆を頂いた。現在でもこの店は続いて居り、大年和尚の書も家宝として残されているということである。

さて、喜び勇んで黒川に帰ると、村人は今か今かと待ち受けていたが、その筆の大きさに驚いた。

時を見て和尚は、筆太に「南無阿弥陀仏」の六文字を書いて、石屋をよんで、巨石に文字を掘らせた。この一字の中へは、米がちょうど一升入る深さだと云う。

村人は、出来上がった石仏を杣沢谷に建て、和尚や人々によって盛大に供養した。

その後、この付近には怪しいものが出たという話もなくなり、人々は安心して道を通ったということである。

石仏の裏には、延享四丁卯八月(1747年)建立とある。

「ふるさと白川 創刊号」より



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