「あれは一体明治何年の頃だったか、ちょっと思い出せないけど」と、古老の語る話しをまとめてみる気になったのは、現在白川町の特産である茶と椎茸栽培の先覚者ともいえる通称「椎茸倉サ」こと「熊沢倉太郎氏」の冥福を祈り、その供養のためでもあった。謎の人物としてその前身を明かさぬまま、一生を独身で通し、黒川の地に骨を埋めたこの人「倉サ(くらさ)」。
「どこから来たのかわからん一人の若いとも、ひねたともわからん、一見、目の鋭い、それでもどこか人懐っこい男が柿反(かきぞれ)へやってきた」遠い昔を思い出すように、あらぬ方を見つめ、乍ら老人はこう話してくれた。
誰だったかの世話で黒川に来たこの人は、里に草鞋を脱ぐ間もなく柿反の山中に入って小屋を造り椎茸の人工栽培にとりかかった。と言っても、現在のように種菌があるわけでなく、原木に鉈(なた)で傷をつけ、そのまま天然の菌がつくのを待って萌芽させる方法のようであった。
採った椎茸は火力乾燥をして、世話をしてくれた人々とその仲間によって販売されたようであった。時折、里に出ては鶏の雛を買い山中にたくさんの鶏を飼っていたという。
倉サの言葉によると、椎茸は隠地(日陰山)では成績が悪く、日向でないとよく出ない、とのことでその後どういう経緯でか郡の官史も見に来て黒川の諸処で椎茸の栽培がこころみられるに至った。
どれほどの年数が経ったのか記憶にないが、山を下りた倉サは柿反に居を構え、里の人たちとの交流もはじまった。ここで倉サは黒川の茶の良さに目をつけ、今の機械製以前の製茶法(葉を蒸して助炭(じょたん)で揉む)を皆に教えるようになった。人々は進んでその製法を習い、だんだん普及して、それを企業化する人もあり、柿反の製茶熱は一時盛んなもので、その味と質を競うようになった。まさに神業とも言える倉サの製茶技術は、他の者を驚かせたという。
椎茸栽培といい、茶の製法と商品化は黒川の斯業(しぎょう)の先覚者であったと言えるだろう。
また、倉サは馬のことについても詳しく、馬のことならなんでもよく知っていたし、その後、馬に替わって牛が農耕馬の代わりをするようになったときも、その調教は誠に見事なもので、人々は使い慣れた馬と違って扱いにくい役牛の調教を倉サに付いて習った。倉サの調教はけして動物を叱らないこと、そして感情をたかぶらせて使わない、そのことに尽きたようである。牛の後方に位置し、手綱一本で牛を御し、「これこれ、お前さん、そっちへ行っちゃダメですよ」「はい、上手に歩けました」という調子で、どんな荒牛も倉サにかかっては猫のようにおとなしくなった。
また、庭木の手入れ、庭石の付け方など造園のことについても詳しかった。ある若者が何でも知ってる倉サに、ちょっといたずら心から、町の庭師に付いてにわか仕立ての知識を得て、そしらぬ顔で庭石についての真髄を尋ねたところ、即座に答えたその答えが、町の庭師の云ったこと、教えてくれたことに少しも間違いがなくて、その博学さに舌を巻いてその失礼を詫びたという。
今は禁止された鳥屋についての知識と技術についても抜群であった。
倉サは六十何才かでこの世を去った。黒川在住はおおよそ三十余年である。黒川移住のときの年齢は二十代か、いったい倉サの博学と身につけられた技術はどのようにして得たものか、また一生を独身で過ごした倉サの前歴は誰もそれを知る人もなく、聞こうともせず、語ろうともしなかった。只々、謎の人物として、あの「しょうき」のような立派な髭と、太い眉、そしてその奥に澄んだ山の湖のような笑を湛えた目を思い出す人も少なくなった。
柿反を見渡せる共同墓地の片隅に誰が建てたか一墓の石碑に熊沢倉太郎翁之墓とのみ、本籍愛知県北設楽郡ともその経歴も刻まれていないが、誰が手向けたのか野辺の草花がこの人の隠れた功績を偲ぶかのように陽を受けていた。
「ふるさと白川 第2号」より
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