黒川小坂の榊間久氏宅は、頭初※Ⅰ承応四年三月(一六五五)に現在地に建てられ、その後文化八年(一六九年前)に、初めの家の古材を使って再建されたものであるが、近年老朽化が激しいので、昭和五五年春、当主が旧家を取壊して新築された。
当家に伝わる再建の時の棟札によると、初め家主榊間治郎兵衛が、三二五年前に建てたもである。再建は、当家八代の常左エ門が、小畑の棟梁小池彦左エ門外二人の大工に建てさせたとある。

棟札の裏面に (口語体に読みかえる)
「昔承応四年弥生に、細目村(八百津町)大工藤原善右エ門が、この地に来て、玄武(北方)に向かってここに造った。

その後光陰矢のように過ぎて、暦数一五七年の年月を送る。文化六年伊勢の松阪に住む青木泰祐と言う人に、家相を見てもらって、再建を思い立って作る。
辰己に向かい、古木を用いて、※Ⅱ大工橘久巨(たちばなのひさなお)が建てる。
国家安全、五穀成就永く子孫繁昌を祈る。

私は愚痴短才(ぐちたんさい)であっても、他人の嘲笑(ちょうしょう)を受けないようにと諸(もろもろ)の者に云う。」 と書かれている。この棟札によって国頼家の建築の経緯がわかる。

当家の建築は、民間家屋としては、県下でも古く、この形式の建て方は、益田郡馬瀬村名丸の二村梅太郎氏宅と同村数河(すごう)の藤沢宇一氏宅と当家の三軒を残すのみであった。

頭初の建物は、北向きであったが、家相を見てもらって、再建の時に東南(辰己)向きに立てられた。
この家の入口は、向って左で、主要な間は右側に配してある。
三百数十年来の建材は、主として広葉樹(こうようじゅ)の欅(けやき)、桜、栗を主材として用いてあった。
大黒柱、地棟は立派な欅材であり、柱、梁天井棹に桜や桧が用いてある。
これ等の材料が、雨漏りをしない限り、数百年の耐久力があるとされたものである。
間取りは、図のようであるが、土間の広いのは、農作業が多く屋内で行われた事によろう。
榊問家の先祖は、西尾藤蔵国頼といい、あやめ家の初代纐纈守継(永禄年間)と同時代頃、尾張国知多郡中之郷より、現在の国頼(名前が字名、家号になる)に来て住み、田畑を開いて住んだものであろう。

※Ⅲ後代故あって、榊間氏と改めた。
藤蔵は其の先を詳にしないが、由緒ある落武者の跡を残して居り、其の宗家国頼(屋号)の榊間久氏所蔵の乗馬の轡(くつわ)、包永(かねなが)銘の短刀、分家屋敷(屋号)所蔵の天国銘の刀によっても元武家であった事を物語っている。
当家の辰巳方向の、畑の中に石畳にした塚があり、「旗神(はたがみ)」といって、往時戦国の代に用いた旗頭を葬ったと伝えられている。
尚榊間家が、勧請した、堂洞山鎮座の太布登(たふと)神社の御神体の、十一面観世音菩薩の尊像は、閻浮檀金(えんぶだんこん)(黄金)で鋳造され、一寸二分(五・四㎝)の大きさである。
この像は、※Ⅳ良辨大僧正の創作と伝えられ、源新羅三郎義光の胄の八幡座に用いたもので、故あって同家に伝わり、現に太布登神社のご神体として祀られている。
さて当主が今回の家の再建に当って、家の向きや間取りについて、現代風に変更しようと研究した結果、家相や間取も以前のものが最善であると一部の変更をのぞいて、改築前のままにされた事を聞いて、感服した。

註※Ⅰ 承応四年は今から三二五年前で、徳川三代将軍家光の死後四年たった年で、黒川村の正法寺建立より三〇年後、大利臨川寺が開かれる前年に当たる。
※Ⅱ 大工橘久巨(たちばなのひさなお)は、黒川村小畑の小池彦左エ門のことで、美濃国でも知られた宮大工としての名匠で、特に彫刻にすぐれた技能をもち、彼の作として佐久良太神社の幣殿の彫刻、保岐の岩本寺があり、更に山県郡の各地の神社仏閣を建築している。
※Ⅲ 西尾を名のる落武者であったが、代々信仰が厚く、年々伊勢皇大神宮に参拝していた。或る時神宮の榊の間にて、太太神楽(かぐら)をあげた、その信仰心の厚く故をもって事後西尾を改め榊間と名のるよういわれて改姓した。
※Ⅳ 良辨大僧正は、天平の代東大寺工事に当り、大仏を建立し、華厳宗を開めた僧侶である。

「ふるさと白川 第3号」より



書籍ふるさと白川 第3号
もくじ
お問い合わせ白川町町民会館
生涯学習係
0574-72-2317
発行白川町中央公民館
(現 白川町町民会館)
編集白川町ふるさと研究会