河東(かとう)の野原(のわら)に城あとがある。この城にまつわる悲しい物語である。

今から凡そ四百年前、天正年間織田信長が京都の本能寺で、明智光秀に倒され、天下は乱れて、東濃の風運も急をつげ、兼山城主の武蔵守長可(ながよし)は、東濃地方を手中に押さえようとして、次々に城を攻め落とし、この野原城(のわらじょう)にも駒を進めてきた。

野原城は、安江長政の子 正常が守っていたが、勇名高い森の軍勢に攻め立てられ、もろくも落城し、城主正常は城を捨てて程近い岩くつに逃げ延びた。

この時、奥方は、一旦逃げ出したものの、荒くれ軍兵に追われ、手向かうこともできず、たちまち捕らえられて、その場で荒武者に切り裂かれて、飛騨川に投げ込まれた。この場所は、宇津尾(うとう)の谷川が、飛騨川に流れ込む天神平と云うところである。

それから三日後、お方さまの傷だらけの死体は、流れにもまれてその下手の岩にひっかかって、晒されていた。里人は、このむごたらしいさまを見ても、敵のとがめを恐れて手をくだすこともできなかった。

いく日か過ぎて、お方さまの腐り果てた死体は、はげしい飛騨川の流れにもまれて、ちぎれちぎれになって、流れ去ろうとしたが、お方さまの執念が、こりかたまったかのように付近の岩にしがみついて、岩にひっかかったまま残っていたという。

体が、二つに分かれた岩が「二つ岩」、七つに分かれてひっかかった岩が「七つ岩」、腕が引っかかった岩が「腕岩」、股(もも)がひっかかった岩が「股根岩(ももねいわ)」と今でも残っている。

それらの岩々は、戦国の悲しい物語として、野原城の真下まで、飛騨川一千米の間に点在して、今でも里人に語り伝えられている。

「ふるさと白川 創刊号」より


書籍ふるさと白川 創刊号
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